日本泳法とは

日本泳法とは、武芸の一つとして発展してきた日本に古くから伝わっている水泳術です。古くは「水練」と呼ばれ、乗馬や弓と並んで重要視されてきました。

日本泳法は西洋で発展してきた「競泳」と異なり、泳ぎの速さを競うものではなく、それぞれの泳ぎの洗練度・完成度を高めることを目的としています。

日本泳法には、例えば「長距離を泳ぐ」「波を乗り越える」「武器を濡らさずに海や川を渡る」「手を縛られても泳ぐ」など様々な目的に合わせた泳ぎ方が生まれました。平和な時代になると、戦闘術から離れた泳力誇示の華々しい泳ぎなども生まれました。

現在、全国に13流派があり、芦屋水練学校ではその内の「小池流」の伝承・普及を目的に活動しております。

沿革

芦屋水練学校創設者、故高石勝男は昭和24年(1949年)に芦屋浜での水練学校を開校するにあたり『国民皆泳』を理念に掲げました。

創立当初の芦屋水練学校は海で行われましたので、海での泳ぎを友人でもあった小池流第十代宗家・加藤石雄に指導を仰ぎました。

元々堂島川の水練学校から本間秀二郎門下の指導者達が阪神間、特に帝国水友会(香露園水練学校)で指導しており、戦後、帝国水友会の解散に伴って、芦屋水友会(芦屋水練学校)へと集まっていました。

当時の師範、中田留吉はクロール泳法をいち早く取り入れ茨木中学で高石を指導しました。(後に高石は二度のオリンピックに自由形で出場する。)
また一方で中田は野島流の達人でもあり、加藤石雄と共に芦屋水練学校で積極的に小池流の指導にあたり、多くの指導者を輩出しました(当時は野島流・小池流の区別はありませんでした)。

その頃の芦屋水練学校の教程は小池流の蛙足平泳ぎを基本としていました。芦屋で小池流は隆盛を極め、日本泳法大会では外国人泳者を含め続々と入賞者が出てくるまでになりました。

毎夏大阪プールで開催された競泳の日豪対抗や日米対抗には必ず小池流泳者による日本泳法演示が行われるほどになりました。1964年の東京オリンピック(当時 日水連会長・高石勝男)にも加藤門下の井上紘一(第4回卒)、服部耀(第5回卒)、井上英哉・暮部清俊(第6回卒)、鈴木誠(第10回卒)が各国水泳関係者にそのインテリジェンスな泳ぎを披露し驚嘆と喝采を浴びました。

高石亡き後、一時期日本泳法は、基本泳法の指導に終始しましたが、今日生涯スポーツの重要性から現在の指導者達が再びしっかりと取り組んでいます。現在、兵庫県水泳連盟・泳法研修所でも当校名誉師範の鈴木誠が指導に当っています。

小池流

元和5年(1619年)徳川頼宣が駿河(静岡県)より紀州(和歌山県)へ入国したとき、船手奉行竹本丹後配下の水軍の士として従った小池久兵衛成行を流祖とし、蛙足平泳ぎを基本としている。

4代小池房長は水芸(水泳)の技術優秀なるをもって、藩主より水右衛門の名跡を賜り、以降7代敬信まで代々水右衛門を襲名している。

明治になって和歌山の小池水泳場出身、本間秀二郎が大阪の堂島川に水練学校を開き、浜寺水練学校の初代師範井上康治・富造兄弟をはじめとする多くの人材を産み出し、浪花游泳同士会を結成して阪神地方の水泳普及に大いに貢献した。

幕末の資料によると、小池家は自身の流儀を野嶋流水芸と名乗っていた。その為、阪神地方では小池家の流儀を一般に野嶋流と呼んでいた。

一方伊勢(三重県)田丸では、天明6年(1786年)4代房長の門弟、加藤良房が城主の命により、外城田川及び宮川で小池流と称し藩士を指導、以後代々高弟が師範を継承し、廃藩まで続いた。

加藤良房の曾孫竹雄は明治34年(1901年)名古屋水泳協会を設立し、京浜地方に広く小池流を普及指導した。竹雄の後継者、長男加藤石雄は昭和6年(1931年)9代小池長之助より道統を譲られた為、和歌山・田丸の二系統が統一され、今日の小池流になった。
            
             (日本水泳連盟HPより抜粋)