創設
芦屋水練学校は、第3回アムステルダム五輪銀メダリスト、後に日本水泳連盟会長にもなった高石勝男によって、1949(昭和24)年7月、芦屋市・芦屋市教育委員会などの協力を得て、創設されました。
芦屋水練学校創立に当たり、高石は3つの理念を掲げました。
- 国民皆泳
- 水難事故防止
- 低年齢層からの水泳選手強化
創立から70年を過ぎた今も、この3つの理念を我々は守り続けております。
沿革
源流
明治時代末ごろ、大工業都市となった大阪の住環境は悪化の一途にありました。一方、大阪近郊にありながら工業化されておらず、白砂青松、山紫水明の阪神間は絶好の住居地として開発が進みました。特に西宮から芦屋にかけての砂浜は遠浅で波が穏やか、水質も良く、当時健康法として注目されていた海水浴にうってつけでした。
香櫨園浜(御前浜)に海水浴場を設置した阪神電鉄は、水泳普及のため大阪の「水泳同志会」に指導を委託していました。同会の河津彦四郎が1913~14(大正2~3)年ごろ、弟子たちと「帝国水友会」を設立・独立し、後の芦屋水練学校へとつながる香櫨園水練所を開催していました。
創設
第二次大戦以前にクロールの名選手として名を馳せ、香櫨園水練所でも指導に加わっていた高石勝男は、「水の事故を無くしたい」「子供に有意義な夏休みを過ごしてもらいたい」「日本の水泳選手の低年齢からの強化」を構想していました。
高石はまず1948(昭和23)年に、解散してしまった「帝国水友会」から人材を募って「芦屋水友会」を設立しました。翌年1949(昭和24)年7月、スポーツ界における先輩でもあり、当時芦屋市長であった猿丸吉左衛門氏や、山村康六氏(後に芦屋市長)、上羅了氏(書家の上羅芝山)をはじめとする芦屋市・芦屋市教育員会の方々、朝日新聞社の協力と賛同を取り付け、自身を校長とする芦屋水練学校を芦屋浜に開校しました。
開校当時は、芦屋市・芦屋市教育委員会が主催、兵庫県水泳連盟と朝日新聞社が後援、芦屋水友会が運営という体制でした。
変遷
生徒138名、卒業生1名から始まった芦屋水練学校も、生徒数がだんだんと増え、一時期は1,000名を超えるようになり、隔日登校制や1日2部授業で対応しました。
第16回からは芦屋浜・打出浜から市内各学校のプールに場所を移し、第18回以降毎年芦屋市民プールで開催するようになりました。それに伴い、授業内容も平泳ぎなどの日本泳法から競泳を中心とするようになりました。
主催者も芦屋市・芦屋市教育員会から芦屋水友会へ、そして特定非営利活動法人芦屋水練学校へと変わりました。
現在
現在では、卒業生だけでも約1,500名、親子孫三世代に渡って入校する生徒も現れるほど、すっかり芦屋の伝統、夏の風物詩として定着しました。
芦屋水練学校では、卒業生が生徒を教えるという、スイミングスクールとは異なった仕組みにより、単に水泳を習う場所としてだけでなく、社会を学ぶ場としても機能しており、各方面に有為な人材を輩出しております。芦屋の地に根付いた、この貴重な文化である芦屋水練学校を今後も発展させていきたいと考えております。
年表
| 第1回(昭和24/1949年) | 芦屋浜海水浴にて生徒数138名で開校。 |
| 第7回(昭和30/1955年) | 海水浴場移設により打出浜にて開催。 |
| 第8回(昭和31/1956年) | 開催場所を芦屋浜に戻す。 |
| 第13回(昭和36/1961年) | 高石勝男、紫綬褒章を授賞。 |
| 第16回(昭和39/1964年) | 芦屋浜海水浴場閉鎖に伴い、芦屋市立山手中学校・精道中学校のプールにて10日間ずつ開校。 |
| 第17回(昭和40/1965年) | 芦屋市立精道小学校・精道中学校・宮川小学校にて開催。 |
| 第18回(昭和41/1966年) | 創設者高石勝男死去。 芦屋市民プール完成に伴い、以降本プールにて毎年開催するようになる。 |
| 第27回(昭和50/1975年) | 渇水のため、やむなく8月15日で終了。 |
| 第33回(昭和56/1981年) | 主催が芦屋市教育委員会から水友会に移行。 |
| 第48回(平成8/1996年) | O-157流行により、期間中で終了。 |
| 第56回(平成16/2004年) | NPO法人芦屋水練学校を設立。 主催が水友会からNPO法人芦屋水練学校に移行する。 |
| 第58回(平成18/2006年) | NPO法人芦屋水練学校が朝日ヶ丘市民プールの指定管理者となる。(平成30/2018まで) |
| 第72回(令和2/2020年) | 新型コロナウィルス流行により開催を見送る。 |
