日本泳法とは、武芸の一つとして古くから伝えられてきた泳法です。海や川、池などで様々な自然環境に合わせて、その目的別にいろいろな泳ぎが生まれました。通常の泳ぎ以外に、長距離を泳ぐため、身を守るための泳ぎ、水中戦闘、更には泳力誇示するための華々しい泳ぎなどもあり、かつては武士のたしなみとして重んじられていました。
現在、全国に13流派があり、芦屋水練学校は小池流として伝承・普及を目的に活動しております。
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小池流とは
元和5年(1619年)徳川頼宣が駿河(静岡県)より紀州(和歌山県)へ入国したとき、船手奉行竹本丹後配下の水軍の士として従った小池久兵衛成行を流祖とし、蛙足平泳ぎを基本としている。
4代小池房長は水芸(水泳)の技術優秀なるをもって、藩主より水右衛門の名跡を賜り、以降7代敬信まで代々水右衛門を襲名している。
明治になって和歌山の小池水泳場出身、本間秀二郎が大阪の堂島川に水練学校を開き、浜寺水練学校の初代師範井上康治・富造兄弟をはじめとする多くの人材を産み出し、浪花游泳同士会を結成して阪神地方の水泳普及に大いに貢献した。
幕末の資料によると、小池家は自身の流儀を野嶋流水芸と名乗っていた。その為、阪神地方では小池家の流儀を一般 に野嶋流と呼んでいた。
一方伊勢(三重県)田丸では、天明6年(1786年)4代房長の門弟、加藤良房が城主の命により、外城田川及び宮川で小池流と称し藩士を指導、以後代々高弟が師範を継承し、廃藩まで続いた。
加藤良房の曾孫竹雄は明治34年(1901年)名古屋水泳協会を設立し、京浜地方に広く小池流を普及指導した。竹雄の後継者、長男加藤石雄は昭和6年(1931年)9代小池長之助より道統を譲られた為、和歌山・田丸の二系統が統一され、今日の小池流になった。
(日本水泳連盟HPより抜粋)